『ピクサー流 創造する力』 by エド・キャットムル
『トイストーリー』、『バグズライフ』、『モンスターズインク』、『トイストーリー2』、『ファインディングニモ』、『トイストーリー3』、誰しもが知っているヒット映画。これを生み出しているのがピクサーという会社だ。
ピクサーという会社名を聞いた人は多いだろうが、会社自体を知っている人はあまり多くはないだろう。スティーブジョブスが出資していたということも知らない人は多いのではないだろうか。実は、ピクサーは当時のディズニー(今も大御所だが)をおさえてコンピューターアニメーションの映画を作った先駆けの会社であり、とてもスタートアップ的な風土を持った企業である。
なぜこのようなヒット作を生み出し続けてこれたのか。この本にはヒット作を生み出し続けるピクサーの軌跡が描かれている。なぜ「創造性」が必要なのか、それをどう生み出していくかということから、どうやって社員のモチベーションを上げていくかなど様々なことが書かれているが、その中から偶発性に関して抜粋して説明をしようと思う。
仕事をしていくうえで意識をしなければいけないことが2種類ある。
それが、 「変化」と「偶発性」だ。
「変化」が起こるのは怖い。不安になる。
人は一度マスターしたものに関しては欠陥を感じなくなってしまう。そういった態度が結果として、「創造する衝動」の欠如につながる。
一方「偶発性」はどうであろうか。
エド・キャットムルは偶発性をこう表現する。
インド人はインド初のゴルフ場「ロイヤル・カルカッタ」を建設しようとしてある問題に気付いた。白い小さなボールに興味を惹かれた土着のサルたちが、木からさっさと降りてきてフェアウェイに入り、ボールをつかんで持ち去ってしまう。それは困ったということでフェンスを建てたがサルはそれをよじ登り越えてしまう。捕獲してほかの場所に移そうとしたが、すぐに戻ってくる。大きな音を出して脅かそうとした。打つ手打つ手が失敗に終わった。最後にたどり着いた解決策は、ゲームの新ルールだった。「サルがボールを落としたところから打つこと p.210
人間はパターンを脳に記憶することはできるが、偶発性を予測することはできない。
しかし、そもそも偶然と能力を区別すること自体が難しいのではないだろうか。会社に早く着けたのは早起きをし、事前に計画をしたからだろうか、それともたまたま間が良かっただけだからだろうか。 ほとんどの人が迷わず前者だと答える。
つまり、人は過去から学ぼうとして自分の過去の経験に基づくパターンを形成する。 会社がうまくいっているときはリーダーが抜け目のない決断を下したものと考えがちで、偶然や運を一切考慮しない。
いつも物事を単純化しがちなのだ。人々は未知の出来事に対して脅威と感じすぎであるし、未知の出来事を受け入れられないからこそ創造性が硬直してしまう。
では、どのようにこの偶発性と向き合えばいいのであろうか。
それにはまず不確実性を予測可能にする数学的モデルから考える必要がある。
不確実性を予測するにはどのような数学的モデルがあるだろうか。
まずは線形性だ。
これは、物事は同じ道筋をたどるか、予測可能な形で繰り返すという概念だ。例えば1日、1年のリズムや太陽の昇り沈みの周期的リズムのことを指す。
これはわかりやすいし予測がしやすい。
次によく使う数学的概念は正規分布だ。
これは学校の成績のように5段階評価なら5や4の人、1や2の人は少なく、平均的な3の人が多いといったことだ。グラフにすると釣鐘型となる。
これも反復的な行動に基づくものであり、正規分布を知らない人でも直感的にイメージできるものではないだろうか。
ここまでは我々が日々、何かのパターンを予測する時に使用している数学的概念である。
しかし、これでは偶発性を説明することができない。 なぜなら偶発性という不規則性は上記二つの数学モデルとは馴染み合わないからだ。
ここでエド・キャットムルは3つ目の数学的概念を持ち出す。
それが確率過程の自己相似性だ。自己相似性とはパターンを拡大縮小しても元と同じように見える現象のことを指す。例えば株式市場の変動や地震活動、降雨などあらゆるものにまで適用されている。
これを偶発性に当てはめた時、どのように作用するのであろうか。
人は、生活の中で毎日何百もの問題に直面する。しかし、その大部分は問題とは呼び難い。小さい問題としては靴の片一方がソファーの下に入り込んだ、冷蔵庫内の電球が飛んだということから大きな問題は戦争、伝染病、テロなどだ。
我々は、この小さな問題と大きな問題が根本的に異なると捉えてしまう。そうするとどうなるか。大きな問題ばかりを対処をし始め、小さな問題には目もくれなくなるのだ。
しかし、小さな問題と大きな問題の構造は同じである。どちらも予期せず起こるし、どちらも誰の責任でもない。
これはものすごく重要なことである。
仕事をしているとそうだが、大きな問題を一大事だと思いがちだ。そういう時は会社全体がパニックになり、次に起こることはお互いの責任のなすりつけ合いになる。
予期せぬ問題には予期せぬ対応が必要だし、入念に計画をしても未然に防ぐことができないのなら社員一人一人が問題を深刻に捉え、解決する自信を持つことが必要なのだ。
我々は偶発性を恐れている。常にコントロールしようとしている。だから大きな問題を想定外の問題とし、小さな問題を想定内の問題として明確なラインを引きたがる。
それぞれに違うアプローチが必要だと思い込んでしまうのだ。
しかし、現実はそうではない。大きな問題が常に優先順位が高いとは限らない。小さな問題が深刻な問題につながることもあるのだ。
これは仕事をしている人ならきっと誰もが経験していることだろう。
有名なのはヒヤリハットだ。
「重大事故の陰に29倍の軽度事故と、300倍のニアミスが存在する」
この無数にある小さな問題を潰し、ヒヤリハットをなくしていくには業務に関わる全ての社員が問題を対処する必要がある。むしろその問題を対処する権限を与えるべきなのだ。
それが問題の構造に適した対処構造を作ることだとエド・キャットムルは教えてくれている。
『プロフェッショナルの条件―いかに成果をあげ、成長するか (はじめて読むドラッカー (自己実現編))』Peter F. Drucker 著, 上田 惇生 訳
社会とマネジメントを組み合わせた「マネジメントの父」。この本は著書とドラッカーが共著で執筆をした『ドラッカーマネジメント読本』『ドラッカー社会論読本』の二冊をわかりやすいようにまとめたものだ。
なので、文章も平易で読みやすい。本の最後にも各章がドラッカーのどこの著作から引用したのかが記載されており、自分が興味を持った著作を掘り下げられる内容となっている。
そもそもなぜドラッカーはマネジメントが必要だと説いたのであろうか。
彼は、それを紐解くために各時代の転換期で生じている歴史的な革命を分析している。
西洋では数百年に一度、際立った転換が起こる。
当時、ヨーロッパ社会は、ほとんど一夜にして都市中心の社会となった。社会勢力としてギルドが登場し、遠距離貿易が復活した。3頁
この転換はなにも経済の世界だけではない。
芸術的や文化的、学術的な転換も起きた。
都市的な新しい建築としてゴシック様式が興った。新画派としてシエナ派が興った。知恵の源泉はアリストテレスに移り、文化の中心は、田舎の孤立した修道院から都市の大学に移った。3頁
そこから200年。西洋は再び転換期を迎える。
グーテンベルグの印刷革命とルターによる宗教改革の間に発生したのだ。
1470年から1500年にかけてフィレンツェとヴェネツィアにおいて絶頂期を迎えたルネッサンスがあり、古代の再発見があった。アメリカ大陸の発見があり、ローマ軍団以降の初の常備軍となるスペイン歩兵軍団の創設があった。
昔からどの時代にも革命的出来事は存在していたのだ。
次の転換はだれもが歴史的に知っている産業革命時、資本主義と共産主義が現れたことだ。
しかし、資本主義や、技術革新それ自体がすぐに産業革命として世界的な現象に直結したのではない。
なぜなら資本主義、技術革新という現象や考え方それ自体は産業革命が起こる前にも現れていたからだ。
それは、知識の意味の変換である。
そもそも1700年頃の知識に関する理論は2つしかなかった。
プラトンの伝える賢人、ソクラテスは、知識の役割は自己認識であるとし、ソクラテスのライバルであった哲人プロタゴラスは、知識の役割は何をいかに言うかを知ることにあるとした。
つまり、知識は行為に関わるものではなく、行為に関わり、効用を与えるものは技能と呼ばれていたのだ。
やがて、技能は技術へと変化する。
1751年から1772年にかけて編纂された『百科全書』である。
『百科全書』の思想は、道具、工程、製品など物質世界における成果は、技能とその体系的応用によって生みだされるとするものだった。『百科全書』は、1つの技能において成果を生む原理は、他の技能においても成果を生むと説いた。その説は、当時の知識人や職人にとっては異端の考えだった。11頁
産業革命の第一段階である。 そしてあの悪名高きテイラーの科学的管理法が現れるのだ。
しかし、彼がもたらしたのは、知識を仕事の分析に応用することであった。
仕事は長い間、教育ある人たち、豊かな人たち、権威ある人たちの注目に値しなかった。それは、奴隷のすることだった。そして、より多くを生産するための唯一の方法は、より長く働かせるか、より激しく働かせることだった。"15頁
こうして、生産性革命が始まる。
テイラーが知識を仕事に適用した数年後、肉体労働者の生産性が年率3,5%ないし4%で伸び始めた。
この数字は18年で倍増することを意味した。
その結果、あらゆる先進国において、テイラー以降から今日までに、生産性は約50倍に増加した。
50倍とは想像もできないほどの増加である。
しかし、この生産性革命はすでに終わっている。 なぜなら、1990年代には労働力人口が5分の1にまで縮小したからだ。
肉体労働者の生産性は限界を迎え、非肉体労働者の生産性をあげる時代へと突入している。
このように、産業革命は三段階の知識の適用の転換を組み込んでいる。
道具、工程、製品への知識の適用が第一段階、第二段階としての仕事そのものへの知識の適用を経て、第三段階として知識を知識に適用することが行われ始めたのだ。
それはつまり、効用としての知識、社会的、経済的成果を実現するための手段として知識を適用することだった。
ドラッカーはこれをマネジメント革命と名付けた。 マネジメント革命の時代に必要な人材は知識労働者である。
それまでの知識は学習できるものではなく経験しか得られず、訓練されて初めて身につく技能とされてきた。 しかし、1990年代から始まったこのマネジメント革命では、知識は高度に専門化されてなければならない。
それは体系化された専門知識であり、それを体系づける手段として知識労働者が必要になるのだ。
ドラッカーの説いた知識労働者の時代からすでに26年が経っている。
しかし、その間に我々が直面していることはIT技術の出現という産業革命以降歴史に残る革命である。
そもそもIT革命は他の革命とは違い、将来の予測もできない特別な革命なのであろうか。
ドラッカーはこの革命を産業革命と比較することでこの幻想を打ち砕いている。
今日ムーアの法則によれば、IT革命の基本材であるマイクロチップは、一年半で半値になっていくという。しかし、産業革命で生産が機械化された製品にも同じことは起こった。面繊維の価格は、一八世紀初めから五〇年で九〇%安くなった。238頁
産業革命もIT革命と同様に恐るべきスピードで様々な製品の価格破壊を起こした。 そして、労働者階級という新しい階級を生み出す。
わずか四、五〇年の間に、労働者階級が生まれた。239頁
しかし、そのような大きなインパクトを与えた産業革命だったが、最初の50年間は製品の生産の機械化だけしかもたらさなかった。
それは、大量生産を生み出し、生産コストを押し下げることで大衆消費者と大衆消費財を生み出していったが、産業革命の神髄はここではなかった。
やがて、世界の経済と社会、政治を一変させる製品が生まれる。
鉄道の登場だ。
では、IT革命はどうであろうか。
今日までのところは、IT革命以前から存在していたもののプロセスを変えてきたにすぎない。実態上は、いささかの変化ももたらしていない。四〇年前に予測された変化は、一つとして起こっていない。大きな意思決定の仕方は変わっていない。IT革命が行ったことは、今日のところ、むかしからあった諸々のプロセスをルーティン化しただけである。242頁
確かにIT革命は当初産業革命の最初の50年間と同じプロセスを我々はたどっていたのかもしれない。
Eメールの発明により従来紙のやりとりをしていたプロセスはよりルーティン化され、eコマースは産業革命時代より広範囲の大衆消費者を開拓した。
そして、産業革命が段階を追って発展したように、salesforceをはじめとするSaaSのビジネスモデルを代表する会社は仕事を効率化し始めている。
『同性愛と異性愛』河口和也 風間孝 著
世の中には二分法という考え方があふれている。
「正常」と「異常」、「健常者」と「障碍者」、「理想」と「現実」。そして、「同性愛」と「異性愛」。
このような関係にある言葉は、片方を取り出さずにはもう片方を議論することができない。 「同性愛」と「異性愛」という二分法も同じだ。「同性愛」を語る背景には常に「異性愛」が存在する。 なぜなら、この社会は「異性愛」が「当然のもの」、「普通のもの」とされ誰も疑問に思わないからだ。「同性愛」に焦点を当てることで、我々が普段当然なものとしている「異性愛」に初めて気づくことができる。その姿が浮かび上がってくる。
そもそも同性愛という考え方は歴史的にどのように形成されていったのであろうか。
自らを「同性愛者」として意識する人が誕生したのは、たかだか百数十年前の19世紀末のヨーロッパとアメリカにおいてにすぎない。 P.77
同性愛者もまた、近代に生まれたアイデンティティである。 では、なぜ19世紀末なのか。
カナダの社会学者バリー・アダムは当時の欧米社会に、同性に魅力を感じた人どうしが親密な関係性を築くことを可能にする条件が整いつつあったことを、その理由にしている。各国で工業化と都市化が進む中で、こうした人々は、パブ、コーヒーハウス、公園、鉄道の駅、街頭などでお互いを発見し、親密な関係を持つようになっていったのだ。 P.77-78
お互いが同性愛者だと気づく場が大きな寄与となった。 やがて同性愛者は刑罰の対象とされる。
犯罪化された「同性愛」が次に待ち受けていたのは病理化である。
つまり、同性愛は先天的変質であるがゆえに、その責任を問うことはできないという主張が犯罪化に対抗して生まれたのである。だが、先天的変質であるとの議論は、しだいに同性愛を病理とする根拠として用いられるようになっていった。同性愛もまた他の「逸脱」行為と同様、「正常」な社会の防衛のために「治療」の対象として組み込まれるようになった。 P.83-84
そして、この病理化が「同性愛者」というアイデンティティを作り上げた。
「性的倒錯」という診断名のもとに症例が集積されていくことによって、同性愛を「ソドミー」という行為としてとらえるのではなく、同性愛者というひとつの「人間類型」を作り上げることになったのである。こうして同性どうしのライフスタイルを可能にする条件のうえに病理化の力学が重なり合いながら、「同性愛者」という自意識が生み出されていったのである。 P.84
このようにして見えなかった「同性愛者」は見えるようになってしまった。いや、正確に言えば社会から見えないように隠蔽されていた「同性愛者」に気づいてしまったのだ。
そして、見えるようになった「同性愛者」に恐怖を感じる人が出て来る。「同性愛者」であることで、殺されてしまう事件が起きたのだ。2000年2月10日夜、30代の男性が新木場駅で殺害された。
殺害をしたのは公園にいる同性愛者を対象に十数件の暴行、強盗事件を起こしていた少年グループの内の二人の少年だった。
彼らはなぜ同性愛者を対象に選んだのか。
少年たちがゲイを対象に選んだのは、互いの関係性を通して自らの「異性愛」をいっそう確かなものとするためではなかったろうか。<中略> 同性愛者を「クズ」「どうなってもいい」存在として認識を共有していくプロセスは、男性同性愛者を自分たちとは異質な存在としてラベリングすることであり、「異性愛性」を互いに確認し、強固にしていくことだったのではないだろうか。裏返せば、自然・原則とみなされる「異性愛性」がじつは脆弱なものであることを示しているといえるのかもしれない。 P.143
つまり、我々が普段当然だと思っている異性愛は当然ではないのだ。 同性愛者は自分には理解ができない、当然だと思っていたことが通用しない。
むしろ、同性愛者にとって、「異性愛」という概念を押し付けてくる異性愛者こそ理解できない存在なのだ。
その一方で、こう考える人もいるだろう。この一連の事件は一部のホモフォビアが起こしたことで、私には関係がない。そもそも自分が同性愛者だとカミングアウト自体しなければいいはずだ。
私は同性愛者を認めているからカミングアウトされても問題がない。私はあくまで中立の立場だ。
こういった態度をとる人は自分が知らず知らずのうちに差別の加害側に回っていることに気づくべきだ。
なぜなら、同性愛者は常にカミングアウトの板挟みにさらされているからだ。 以下に、都立府中青年の家の事件をあげよう。
同性愛者団体、「動くゲイとレズビアンの会」(通称アカ―)が、都立青年の家の利用を拒否されるという事件が起きた。
アカ―は都立青年の家で勉強合宿を行っていたが、その際、自分たちが同性愛の団体だということをカミングアウトしていた。
すると、一緒に宿泊していた他の団体から嫌がらせを受けた。アカ―はそれに対して、都立青年の家に適切な対策をとるよう働きかけたが、結果としてアカ―が利用を拒否されてしまったという事件だ。
青少年の家側の主張としては、
1. 今回は「差別事件」ではなく、「いやがらせ」「いたずら」の域をあくまでもでない。
2. 「同性愛者の団体であること」を表明しているが、同性愛者をとりあげるメディアの影響が強いということ。
3. 犯人捜しのようなものを行っただけでなく、そもそも子どもの事件であり、子どもの人権を考慮していない。
である。
それだけではない。
あなたがたの「主張や行動」が他の都民と同様、尊重されなければならないとしても、今日(現在)の日本国民(都民)のコンセンサスが得られている内容とは思えません。特に青年の家は「青少年の健全育成」を目的として設置されている「教育機関」としての一施設です。このような目的を持つ教育機関の末端機関の長として、私はあなたがたの主張や内在する行為を支援するわけにはいきません。他の青少年の健全育成にとって、正しいとは言えない影響を与えることを是としない立場にあるものとして、次回の利用はお断りしたいと考えております。 P.49
と青少年の家は回答を残している。
この回答でははっきりと、「同性愛者が青少年に悪影響を与える」と主張している。
この事件は、いかに同性愛者がカミングアウトのジレンマに陥っているかを表している。
世間からは、「同性愛者だということをカミングアウトせずに利用すればよかったのに」という声が多かった。
しかし、利用団体のリーダー会でお互いの団体を紹介するのがその青年の家でのルールだった。 同性愛者だと紹介すれば「青少年の健全育成にとって悪影響」だとみなされる。
かといって同性愛者だということを隠せばルールに反することになる。 これは日常生活でも同じである。 「私的なことだから秘密にしておけばよい」といって秘密にしておいて、後で本当は同性愛者だとわかれば「なぜ隠していたんだ」と非難されるかもしれない。
同性愛者は日々、このジレンマに悩まされているのだ。 同性愛者は別にカミングアウトをする必要はない。そのような態度をとることは都立青年の家と何ら変わりがない。同性愛者への差別を助長することに加担をしていることと同じなのだ。
では、同性愛者と向き合うにはどうすればよいのか。カミングアウトへの対応が鍵となってくると私は考える。
この本ではあくまでもカミングアウトへの対応のヒントし書かれていないが、この対応の方法についてこれからも考えていきたい。
『本を読む本』 モーティマー・J・アドラー チャールズ・ヴァン・ドーレン
巷ではキャッチーなフレーズを沢山散りばめられたハウツー本や、議論をただ端的に表す解説本が山のように転がっている。
しかし、我々は本当にそのような本を読んでいればいいのだろうか。
ハウツー本や、解説本を読むのは「情報の読書」である。
書き手と読み手の間にその物事について理解の差があるときに読むのが、本である。
このようにして読む本は「理解を深める読書」であるのだ。
著書は本を読むことを「教わること」、つまり本という「助けを借りた発見」と表現している。
そして、読書を4つのレベルに段階分けをしている。
1.初級読書
2.点検読書
3.分析読書
4.シントピカル読書
4番の「シントピカル読書」は聞きなれない言葉だが、要するに同一の主題について二冊以上の本を読むための手法である。学問的テーマを研究する時に使う手法だ。
1と2に関しては小学生の国語の授業で身につけるような手法である。
しかし、問題は3の「分析読書」だ。
この読み方は学校では誰からも教わらないから大変なのである。学校でも習わないのだから社会に出てから身につくスキルでもない。
むしろ、大学では「分析読書」をすっ飛ばして「シントピカル読書」に移ってしまう。
「分析読書」で一番重要なのは「著者が解決しようとしている問題を明らか」にすることだ。
実はこの著者が提示している問題を明らかにすることが読書のこの上ない喜びなのである。
そこには世間一般の常識の覆し、そして解決不可能と思われる問題に対しての解決方法の提示など、知的好奇心を満たしてくれるものがたくさん詰まっている。
「あ、そういうことだったのか!」
「こうすればいいのね」
そしてこれらのものに応えてくれるのが良書なのではないだろうか。
何度読んでも発見がある、そんな本に出会うためには「分析読書」を身につけることが重要だ。