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カフェイン抜きのコーヒー

日々読んだ本の書評をしていくブログです

『同性愛と異性愛』河口和也 風間孝 著

世の中には二分法という考え方があふれている。

 

「正常」と「異常」、「健常者」と「障碍者」、「理想」と「現実」。そして、「同性愛」と「異性愛」。

 

このような関係にある言葉は、片方を取り出さずにはもう片方を議論することができない。 「同性愛」と「異性愛」という二分法も同じだ。「同性愛」を語る背景には常に「異性愛」が存在する。 なぜなら、この社会は「異性愛」が「当然のもの」、「普通のもの」とされ誰も疑問に思わないからだ。「同性愛」に焦点を当てることで、我々が普段当然なものとしている「異性愛」に初めて気づくことができる。その姿が浮かび上がってくる。

 

そもそも同性愛という考え方は歴史的にどのように形成されていったのであろうか。

 

自らを「同性愛者」として意識する人が誕生したのは、たかだか百数十年前の19世紀末のヨーロッパとアメリカにおいてにすぎない。 P.77

 

同性愛者もまた、近代に生まれたアイデンティティである。 では、なぜ19世紀末なのか。

 

カナダの社会学者バリー・アダムは当時の欧米社会に、同性に魅力を感じた人どうしが親密な関係性を築くことを可能にする条件が整いつつあったことを、その理由にしている。各国で工業化と都市化が進む中で、こうした人々は、パブ、コーヒーハウス、公園、鉄道の駅、街頭などでお互いを発見し、親密な関係を持つようになっていったのだ。 P.77-78

 

お互いが同性愛者だと気づく場が大きな寄与となった。 やがて同性愛者は刑罰の対象とされる。

 

犯罪化された「同性愛」が次に待ち受けていたのは病理化である。

 

 

つまり、同性愛は先天的変質であるがゆえに、その責任を問うことはできないという主張が犯罪化に対抗して生まれたのである。だが、先天的変質であるとの議論は、しだいに同性愛を病理とする根拠として用いられるようになっていった。同性愛もまた他の「逸脱」行為と同様、「正常」な社会の防衛のために「治療」の対象として組み込まれるようになった。 P.83-84

 

そして、この病理化が「同性愛者」というアイデンティティを作り上げた。

 

「性的倒錯」という診断名のもとに症例が集積されていくことによって、同性愛を「ソドミー」という行為としてとらえるのではなく、同性愛者というひとつの「人間類型」を作り上げることになったのである。こうして同性どうしのライフスタイルを可能にする条件のうえに病理化の力学が重なり合いながら、「同性愛者」という自意識が生み出されていったのである。 P.84

 

このようにして見えなかった「同性愛者」は見えるようになってしまった。いや、正確に言えば社会から見えないように隠蔽されていた「同性愛者」に気づいてしまったのだ。

 

そして、見えるようになった「同性愛者」に恐怖を感じる人が出て来る。「同性愛者」であることで、殺されてしまう事件が起きたのだ。2000年2月10日夜、30代の男性が新木場駅で殺害された。

殺害をしたのは公園にいる同性愛者を対象に十数件の暴行、強盗事件を起こしていた少年グループの内の二人の少年だった。

 

彼らはなぜ同性愛者を対象に選んだのか。

 

少年たちがゲイを対象に選んだのは、互いの関係性を通して自らの「異性愛」をいっそう確かなものとするためではなかったろうか。<中略> 同性愛者を「クズ」「どうなってもいい」存在として認識を共有していくプロセスは、男性同性愛者を自分たちとは異質な存在としてラベリングすることであり、「異性愛性」を互いに確認し、強固にしていくことだったのではないだろうか。裏返せば、自然・原則とみなされる「異性愛性」がじつは脆弱なものであることを示しているといえるのかもしれない。 P.143

 

つまり、我々が普段当然だと思っている異性愛は当然ではないのだ。 同性愛者は自分には理解ができない、当然だと思っていたことが通用しない。

むしろ、同性愛者にとって、「異性愛」という概念を押し付けてくる異性愛者こそ理解できない存在なのだ。

 

その一方で、こう考える人もいるだろう。この一連の事件は一部のホモフォビアが起こしたことで、私には関係がない。そもそも自分が同性愛者だとカミングアウト自体しなければいいはずだ。

私は同性愛者を認めているからカミングアウトされても問題がない。私はあくまで中立の立場だ。

 

こういった態度をとる人は自分が知らず知らずのうちに差別の加害側に回っていることに気づくべきだ。

 

なぜなら、同性愛者は常にカミングアウトの板挟みにさらされているからだ。 以下に、都立府中青年の家の事件をあげよう。

 

同性愛者団体、「動くゲイとレズビアンの会」(通称アカ―)が、都立青年の家の利用を拒否されるという事件が起きた。

アカ―は都立青年の家で勉強合宿を行っていたが、その際、自分たちが同性愛の団体だということをカミングアウトしていた。

 

すると、一緒に宿泊していた他の団体から嫌がらせを受けた。アカ―はそれに対して、都立青年の家に適切な対策をとるよう働きかけたが、結果としてアカ―が利用を拒否されてしまったという事件だ。

 

青少年の家側の主張としては、

1. 今回は「差別事件」ではなく、「いやがらせ」「いたずら」の域をあくまでもでない。

2. 「同性愛者の団体であること」を表明しているが、同性愛者をとりあげるメディアの影響が強いということ。

3. 犯人捜しのようなものを行っただけでなく、そもそも子どもの事件であり、子どもの人権を考慮していない。

 

である。

 

それだけではない。

 

あなたがたの「主張や行動」が他の都民と同様、尊重されなければならないとしても、今日(現在)の日本国民(都民)のコンセンサスが得られている内容とは思えません。特に青年の家は「青少年の健全育成」を目的として設置されている「教育機関」としての一施設です。このような目的を持つ教育機関の末端機関の長として、私はあなたがたの主張や内在する行為を支援するわけにはいきません。他の青少年の健全育成にとって、正しいとは言えない影響を与えることを是としない立場にあるものとして、次回の利用はお断りしたいと考えております。 P.49

 

と青少年の家は回答を残している。

この回答でははっきりと、「同性愛者が青少年に悪影響を与える」と主張している。

この事件は、いかに同性愛者がカミングアウトのジレンマに陥っているかを表している。

 

世間からは、「同性愛者だということをカミングアウトせずに利用すればよかったのに」という声が多かった。

しかし、利用団体のリーダー会でお互いの団体を紹介するのがその青年の家でのルールだった。 同性愛者だと紹介すれば「青少年の健全育成にとって悪影響」だとみなされる。

 

かといって同性愛者だということを隠せばルールに反することになる。 これは日常生活でも同じである。 「私的なことだから秘密にしておけばよい」といって秘密にしておいて、後で本当は同性愛者だとわかれば「なぜ隠していたんだ」と非難されるかもしれない。

 

同性愛者は日々、このジレンマに悩まされているのだ。 同性愛者は別にカミングアウトをする必要はない。そのような態度をとることは都立青年の家と何ら変わりがない。同性愛者への差別を助長することに加担をしていることと同じなのだ。

 

では、同性愛者と向き合うにはどうすればよいのか。カミングアウトへの対応が鍵となってくると私は考える。

この本ではあくまでもカミングアウトへの対応のヒントし書かれていないが、この対応の方法についてこれからも考えていきたい。